【塗装事業部編】〜志賀塗装株式会社のあゆみ〜
創業期(1950年〜)
弊社は昭和25年6月に先代の社長志賀昌男が
東京都江東区亀戸町に志賀組として設立し、塗装工事業を始めました。
仕事内容は
プラント塗装・電力塗装工事や石油タンクの重防食塗装を主力工事として行ってきました。
その後、昭和39年4月に先代の社長が地元である福島県いわき市で塗装業を通じて、
いわきの人々に貢献し、地域密着の企業作りをしたいということで、現在の場所に志賀塗装として開設しました。
ちょっとコラム
先代の社長である志賀は、
地元でも四代以上続いた醤油製造業を営んでいたのですが、
父の事業の行き詰まりもあり、公務員として地元に就職しましたが、
起業をしたいと夢が忘れられず!背水の陣で東京へ出ていったということです。
住み慣れた地元を離れて生活できる”源”は、
必ず地元へ戻るという志があったからにほかなりません!!
起業期(1964年〜)
東京と比べると仕事は少なかったのですが、この頃いわき市では小名浜港の開発が進み
多くの船の出入りや海岸線の周辺の平地にたくさんの石油タンクが建設されていました。
そのため、船の船底に貝が着きにくい塗装の依頼や石油タンクの重防食塗装の依頼、
公共事業からの依頼など、多くの仕事をいただきました。
特に石油タンクの塗装の依頼は、タンクが塩害や潮風の影響により、
表面が錆びて腐ってしまうため、定期的に塗装の依頼をいただいていました。
なぜ、このように大きな仕事の依頼が長年にわたっていただけたかと言いますと、
東京で行っていた塗装技術がそのまま適応できたためと、
昭和43年から第一種ケレン作業と呼ばれるサンドブラスト工事を導入したためです。
この工事は錆びた鉄板に向かって、
高圧の砂をコンプレッサーで噴出し、表面についている錆を落とすという工法です。
また、この工事に特殊なサンドブラスト機が必要となるのですが、
当時、この近辺では弊社しかそのサンドブラスト機を
持っていなかったことも大きな要因です。
ちょっとコラム
小名浜港の開発時期に、先代の社長の読みが当たったのは確かなのは間違いありませんが、
それよりも大きな仕事をいただけた要因は、伊藤氏、池田氏、松本氏をはじめとする
同郷の同級生のお力添えがあったからに他なりません。
本当に、同級生の力で
立ち上がった会社であると言っても過言ではありません。
高度成長期(1973年〜)
サンドブラスト工事を導入後、昭和47年に有限会社へと組織を変更しました。
その後、大手建設会社の三菱建設様や常磐開発様などと出会い、
建築塗装の分野へ塗装の分野を広げました。
これらの出会いにより弊社は、
塗装することで環境を維持(ライフラインの保持)する分野と共に、
民間建築を通してお客様に喜ばれる塗装工事があることを知り、
これ以後建築塗装の分野へ事業をシフトして行きました。
ちょっとコラム
昭和48年〜昭和の時代は
まさに高度成長による社会基盤の整備の高まりも手伝い、
仕事が追いつかず(今になってみると羨ましいかぎりですが)
職人さんも手配に苦労した時代で、残業や早出も多かったそうです!
本当に、この時代の職人さん達の支えがあったからだと感謝します。
建設不況時代
平成10年頃から、建設業が不況に陥り始めたとともに、
平成10年10月に茨城県ひたちなか市に茨城支店を開設しました。
その後、茨城支店は茨城開発事業協同組合という復社で構成された組合を作り、
平成13年に茨城県官需適格組合員認定(ゼネコンの資格)を受けました。
さらに、平成14年に次のステップとして、
特定建設業の許可も頂きました(塗装工事担当として参加)
これにより、ひたちなか市に建設された
火力発電所からの塗装の依頼を受けてきております!!
そんな、中リフォーム事業部は平成13年からスタートしております。
先代の社長がガンで亡くなり、
母一人では会社を運営することが困難だったため、
現在の最高経営責任者の息子の晶文が内定していた会社を蹴ってまでも、
実家に戻って塗装業を手伝いました。
全社一丸となって苦労しながらも会社の職人さん達と協力しあい、
公共事業や電力会社の鉄塔の塗装、原油を備蓄するためのタンクの内部塗装の受注を頂くことができ
現在に至っております。
ちょっとコラム
平成のバブルの崩壊は、例額なく建設業まで押し寄せました。
まして、ゼネコンさんや公共事業をお客様としている弊社にとっては大打撃となりました。
まさにH9年〜H12年は、同業他社も倒産していく中で、弊社も転機を迫られる時でした。
そんなおり、少しでも受注先をと思い、
現社長と専務の出身地である茨城県のひたちなか市に支店開設の手段をとり、
他社と連合を組んで受注活動をスタートしました。
当初は鳴かず飛ばず…このままでは…。
重い雰囲気のH12年の年末でした。